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埼玉県 毛呂山民俗誌 Vol.3/実際にあった魚とりのはなし

[PDF]毛呂山民俗誌 Vol.3/魚とりのはなし


http://www.library.moroyama.saitama.jp/moroyamawoshiru/
pdf/minzokushi03.pdf


http://www.wada.jorne.ed.jp/area/kawa1.html

魚とりのはなし

 越辺川はもとより、高麗川、毛呂川、葛川、桂川などが清流ばかりの時代のはなしである。中小河川が護岸工事と称されて次々にコンクリートで改修され、深い渕も失われ、大量の汚水が流れ込む時代になった今日では想像が出来ないことだが、かつてはよっぽどの魚が棲んでいたようだ。魚が多かったから、人々は魚とりに熱中し、川でとれた魚は食卓をにぎわした。
 したがって、どのムラにも誰もが知っている魚とりの名人がいて、その卓抜したわざが噂されるほどであった。
 ここでは、人々と川との結びつきを知るための第一歩として魚とりの思いでを語ってもらった。魚とりの方法の詳細は別の機会に譲るとして、しばし少しばかり昔の魚とりの様子を紹介することにしよう。



01 3月ころになると万年橋の川上や川下で、石の下にいるカジッカを手探りでつかまえた。
葛 川 ヘ カ ゴ 屋 に 作 っ て も ら っ た 長 さ4 尺 く ら い のうけに
蚕の蠣を餌にして、夕方に置いて翌朝になってから上げにいく。4斗樽にとぐろを巻くような大きいナマズが入っていることがある。
用水堀の柳の木の根元などに置き針を仕掛ける。ウナギが取れる。また、田の水口へ小さなウケを置いてドジョウを取ったこともあった。

ヨボリ
ヨボリと称してカンテラをともしてドジョウを取ったこともあった。
(西大久保)
       

02 いずれも戦前のことである。私の叔父は日露戦争に参加した陸軍軍曹であった。戻ってからは夏は魚とり、また冬は山へ狩猟に出かけるのが唯一の生きがいであった。まず、町内に流れる越辺川で、夏はほとんど魚とりだった。網を二張りほど持っており、自分でワラジをつくり、ほとんど毎日のように網をかついで魚とりをしていた.また針をつかってナマズあるいはウナギなどとって食べたことを懐かしく思い出す,食べ方については、小魚類は醤油煮、鮎などは竹串に指し焼いて、ドジョウなどは卵とじなどにした。
                    

03 節分の頃になるとカジッカーという魚が産卵の時となる。川底の石を上げると石の裏に卵が産みつけてある、親は少し逃げるが、卵のそばにいるので、針ヤスでつく。
親と卵が同時に取れた。
ナマズは6月の頃が産卵の時期で、小さな堀まで上がって来る。堀にヤナを仕掛けて色々な魚を取ることもできた。
石倉をつくって取る方法もあった。川のなかに石をたくさん積んでおき、数日してからその石を少しずつ取る。
中にナマズ、ギンタなどがたくさん入っている。その魚をヤスでついて取ることができる。
置き針は綱の両端に石を縛りつけて針を15ヵ所くらいつけ、ミミズかスナメを餌にして一晩おく。つぎの日の早朝に行って上げる。ナマズかウナギがかかる。
その他、タタキ、カバリ、ヒッカケ、穴づり、アンマづり、ブッタイ、瀬干しというのもある。ガラスウケ、竹でつくったウケなども使った。
食べ方は生醤油で煮て食べるのが多かった。炭火でよく焼いて巻立に刺していろりの上に吊しておいて少しずつ食べた。
(下川原)

04 3月末頃のカジカ取りおよびカジカの卵取り。素手で取った。越辺川の沢田橋より上流全域でとれた。昭和40年のはじめ頃までのことだった,毛呂川も同じ頃まではカジカは多かった。今ではかなり上流でもみかけなくなってしまった、越辺川の上流域である梅園あたりでは素手で石の下の魚を取ったことがある、ニギリと称する漁法であった.
 上流ではアンマ釣りというのがある.ウキもオモリもいらない。上流から下流に向かって竿を川の流れに流し、モドシ(引く)を繰り返してあたりを待つ方法であった.
 越辺川の中上流ではサデアミ漁と称する漁法で鮎をとった。玉アミの大きくしたような楕円形をしたもので、糸の細いアミだった.一人で片手にアミ、片手で魚をおどす棒をもち、川のヘリにアミを置き、アミの方に追い込んだ。入った所を素早くアミを上げた.
 パヤ、ヤマベなどは天麩羅、からあげにして食べたが、多く取れた時などは焼いて保存しておいた。保存法は串にさして炭火で焼いて、新聞紙にくるんで押し入れなどに入れておいた。
 昔はどの川も深い淵が多く、そこの魚は取れないため、いつも大きいやつがたくさんいたものだが、今の川は魚が育たない.淵が少ないためナゲアミ(投網のこと)でほとんどがとられてしまう。最近の越辺川、高麗川などでは他県、他国産の魚がハバをきかせるようになっている.放流された、鮎、ハヤなどが目立つが川ムツ、ブラックバス、ブルーギルなどが増えてきた。
(西戸)

05 3月下旬、石の下にカジカがいて石を上げて手で取った。石の下にはアーコといって卵を産んでいた。越辺川ではヨボリ、ヨカンテラといって灯を利用して魚をとつた。トースミ(山吹の木の芯を抜いて食用油に浸しておいたもの)を2本も3本もカンテラに入れて火をつけ、寄ってくるウナギ、ナマズをヤスでたくさん取った。
 隣の吉川弥三郎さんという人は、魚取りが大好きで、家の祖父など随分御馳走になったという。
(箕和田)

06 ブッタイを使って魚を取った,足で追って魚をブッタイに入れる。広い川でなくて、水路のような所。大谷木川とかが適当であった。春はカジカ。夏はサッコ、ヤ
マベ、ハヤ、クキ。このあたりの魚とりの名人は小峯かいさんだった。             (沢田)

07 テッポウヤス、ヤスで夏はサウコ、クキ、アカヒ、アユ、ナマズ、ギンギョウ、フナをとった。川に石を並べて囲い、バケツで水をかき出し、手で魚をつかまえるといった遊びをカイボリと呼んでいた。
(第三団地)

08 越辺川には俗にクキと呼ばれる魚が多くいた。これをとる方法の一つにクキデというのがあった。川の中程へ長さ各4m位の2条の石堤を作る。その中の幅は2〜3mくらい。その中の汚れた石は外へ出し、河原のきれいな石を入れ替えて、クキの産卵の場を作っておく。
時々、見廻って、多くの魚が集まっているのを見ると、竹で編んだ○○で上下を同時に遮断して魚が外へ出ないようにして、網やブッタイでとる。場所は島耕地あたり。
時期は4月中旬。大正時代から昭和初期まで見られた。
石油の空缶を切って底の方を用いた。切り口は白の丈夫な布で固く覆い、布の中央へ5cmくらいの穴をあけ、ブリキで作ったウケのような先をせばめたものをつける。

(魚の入口)その中へ蚕のサナギを乾して作った粉を入れ、それを川底を掘って周りと同じくらいに埋める。水が入ってそこから出るサナギの匂いをしたって魚が入る仕掛けである。入った魚は絶対に出られない。数日後に、これを取り出して河原で中の水を出して布をはずす。鉢伏せと呼ぶ漁法で昭和の初期まで行われた。越辺川で流れがゆるやかで、水の深い場所ではあちこちで見られた。
 越辺川では久保堰の上、越辺川橋のすぐ上、橋の下流、3ヵ所、川幅も広く、水量も多い場所があり、網を使っている人々が時々見えた。また年1、2回ほど鮎漁も行
われたが、鮎はわずかで大部分雑魚であった。釣りは春から秋にかけて行われ、タタキ針、蚊針が中心であった。
 蚊針は各支流や用水路でも行われた。また針ヘミミズをさし、それを麻縄で近くの木の根などへ結びつけて、夕方に仕掛けておくオキ針。本流はもとより、支流の小さい川の上流まで行われ、翌朝それを上げに行く。これはウナギ、ナマズ、ギンギョウをとる方法である。
 小さい川や堀でウケを伏せて魚をとった。春に魚が登ってくる時期はウケの口を下に向け、秋魚が下る時は口を上に向けてとった。
用水路ではブッタイを用いて、足で岸を踏みまわしてブッタイへ追い込んでとった。
 以上いずれの方法にしてもとった魚は煮るか、焼くか、また天麩羅に揚げたりして食べた。
 しかし戦後、河川も汚されて支流や堀で魚とりはやみ、また中小河川はセメント工法で改修され、魚のすむ場所もなくなった。現在は越辺川本流のみとなった。ただ人造湖の鎌北湖、箕和田湖では釣り客が多い。

09 葛川(毛呂山町大谷木より坂戸市東和田)、桂川、毛呂川など町内を流れる河川には魚種も多く棲息し、取る方法もいろいろあったが、大人は網類、子供はつかみ取り、釣、ウケ、タタキ、ヤスなどを使用した.この外にはハチブセ、ウケ、置き針などが行われた。
 パチブセは缶を夕方に川に沈ませておいて、翌朝に引き上げると、平均1缶1セくらいの雑魚が入っていた。
(魚が餌の匂いにさそわれて缶から入ると、缶の端にギザギザをつけたカエシがあるので出られない)
 水稲の植付初期には夜にカンテラを持ち、ドジョウ針で水田の周囲に寝ているドジョウを刺してとった。たくさんとれた時は近所の家に100匁20銭くらいで売ったこともある。
 魚の食べ方だがウナギ、ナマズ、ギンギョはかば焼き。雑魚は天麩羅か煮つけであった。多くとれた時は串差しにして巻立にさして、いろりの上に吊しておき、少し煮もどして食べた。アユ、ヤマメは塩焼き。鎌北湖のあたりには山椒魚がいたので、小児の薬用(かんの虫)に焼いて食べさせた。             (岩井)

10 越辺川では投網が盛んであった。5、6月頃から越辺川では夏中、川下から川上へ向かって網を打ちながら上って行くのをよく見かけた。魚は鮎、クキ、稚魚が多かった。現在は7月1日の解禁日から10月いっぱいの期間に限られている。川上の適宜のところに網を張り、川下から地曳網で追いつめて行き、投網を打って捕った。
 越辺川で川の瀬に網を張って、落鮎〔産卵を終わって下る鮎)をつかまえた。鮎が網目に頭を突っ込んできた。

11 昭和54年、孫が小学校6年生の頃の夏休み、同級生と共に、長瀬蟹沢のへび沼に出向いて魚釣りを興じ、よく魚は釣れたが帰りには魚を放して帰宅することが常であった.翌春は高麗川に魚釣りにいきたいと言うので、共に自転車で下川原の対岸の四日市堰の上流で釣糸を下げたが、時期、場所および時間の関係からか、釣ることなくやむなく水田の水路に生息しているタニシを採収して帰宅する。その後、孫と共に出向いた森戸僑際のところで大勢太公望が釣糸を下げていたが、釣り場がなく帰宅したことである。
今は高麗川では5年前頃より水質の汚染により魚の産卵生育が不調となり、釣人がないといわれる。高野釣具店にて次々と釣り竿、釣り餌を求めて魚釣りに興じた、魚とりが好きという人として、大師2区には市川茂、市川春吉両氏がいるが、鳩山町に出向いていると聞く、高麗川、越辺川とも水質により魚とりはままならぬものがあるという。また、釣り好きとして臥竜山東山麓の宮崎直輔氏〔畳屋)もその一人ということができる,
(大師一区)

12 ウナギ釣は毛呂川、高麗川、越辺川などで盛んであった。竹のうけやガラスうけは毛呂川のかじゃの堰で、また投網やサグリトリ(手どり)も毛呂川で盛んでした。
 このあたりの魚とりの名人といえば八木原嘉吉さんであった。高麗川、越辺川方面にもよく行ってナマズ、ウナギ、鯉などを手づかみにしていた,八木原耗三郎さんと八木原忠吉さんは投網の名人だった.岩や杭をよけて網を打った。夏の暑い日の午後は毎日魚とりで、とった魚は料理屋に売っていた。         
(滝ノ入)

13 昭和10年頃だったろうか、小学校の先輩に連れられて、ラジオを解体して取り出した細い毛のような銅線の片端に太い針金の鈎を結び、竹竿で電燈線の被覆の取れたところ(戦時は外線のほとんどが裸になっていた)に吊して、もう片方を2mほどの竹の先に結ん
で、流れの中の岩の問などを探して突っ込んで小魚やウナギの子をしびれさせてとった。何か自分の足もビリッとしたのを覚えている。デンキと呼ぶ方法である。悪いことをしたものである。
 流れの主流を片側にまわしてから、養蚕用の石灰をほだてて、魚を酔わせたこともあった。これをブスと呼んでいた。また、石灰を入れずに、水を掻き出して干してしまったりした。カイボリと呼んだ。
石倉は、流れに石倉(両手で持てる程度の石ころを20〜30ヶ積み上げる)を組んでおき、数日後に水の流れを変えて中の魚を捕まえた。これをイシクラといった。
 隣家の亡くなった安藤春作さんはウナギ釣りが好きで、7月のお盆の日にはよく奥の谷の川の岩の隙間などでミミズを餌にして釣っていた.

14 大谷木II[および宿谷川において、冬を除く季節]、
一般的な方法で行われた。魚種は稚魚が主であったが、ウナギ取りの場合には6月下旬から8月下旬までオキバリという方法で行われた。おきばりの方法は釣針にミミズをつけて、川の流れの急な場所に流し針として仕掛ける方法とガマという流れのおそい川渕に仕掛ける方法があった。ウナギの他には、ギンギョウ、ナマズなどもとれることがあった。
調理方法はウナギの場合には腹を裂き、いくつかに切って串にさし、遠火で焼いて、その後1週間ほど串ざしにして表面を干からびさせ、これを調味料(砂糖、醤油、ミリン)などで煮つけて食べた.雑魚の場合も同様で、食することが多いが、塩焼も食する.
雑魚の場合はガラス黍を使用する事が多かった.築の中にご飯、ミミズなどの餌を入れて、水中に沈めて2時間くらいで引き上げると雑魚が多くとれた。雑魚の多くはニガンバヤという食用にならない小魚が多い。猫、犬などに与えたものであった.
(大谷木)

15 自分達の子供の頃は、今の越辺川の松貫橋が西戸橋と呼ばれて、今の下水処理場の放水口付近にかかっていた。西戸堰の下流で、橋の下は水深が深く、夏の日照りが続き川水が減ると橋の下が水溜まりになった。魚がその橋の下に集まり、水かさも減って膝下くらい。しだいに水溜まりも小さくなると、大勢の人たちがブッタイ(竹の割った魚取り道具)で足でもみながらスクイ取りをし、ハヤ、クキ、フナなどが面白いほど取れた。
また夏の暑いムシムシする晩に、越辺川と大谷木川が合流する手前の大谷木川に、置針といって大きな釣針に餌をつけて夕方、少し深いガマといって穴状になっている場所へ仕掛けておき、翌朝に早く行き針を上げに行くと、ナマズ、ウナギ、ギンギョウ(ナマズに似た魚)がかかっていた.

それから冬の寒の内の寒い時に、これは自分の親達がブッタイで越辺川の瀬の流れのあるところで、カジッカという魚とりをしていた。なぜか他の魚は全くとれないでカジッカだけしかいない。かなりたくさん取って、夜にそれを串にさして座敷火鉢(いろり)のように大きな火鉢)に炭を起こして焼き、後で醤油をつけて食べたり、天麩羅に揚げて食べたりした。       (川角)

16 昭和20年代後半、越辺川、西川原、心中淵あたりはまだ水が清く魚がたくさんいた。春の彼岸頃はまだ水は冷たいがカジッカが卵を産む時期で、手探りで石の下のカジッカをとった。
ガラス筒を(餌はサナギを炒った粉末とうどん粉を練り合わせてダンゴにしたもの)夕方になると川中にふせておき、朝4時頃引き上げると鮒やクキ、ハヤが一杯入っていた.
釣りといえば朝と夕方に叩き針。日中は流し針(川の中)、岸辺の釣りをした。また、田んぼの小畦川、田んぼの水落口には竹筒をおきドジョウをとった。6月から7月にかけてである。
網打ち名人である大類の吉田常次郎さんは腕に力があり、背が高いので鮎の走りをよくつかまえて、即座に網を打つため、鮎とりの名人の異名があったのを覚えている,                   (玉林寺)

17 私の子どもの頃は、よく鮎漁があり、大人にまじって越辺川の西河原、心中淵などで、両方から網で囲い、投網で取ったり、素手やヤスで取ったものです,鮎は炭火で塩焼にしたり、ハヤ、ザッコは天ぷらにして食べた,
小学校5、6年の頃は清水の裏の堀で、ナマズやウナギを取ったものだ、針にミミズをつけて夜に置いて、朝になると引き上げに行くとよくウナギがかかっていた,
青年期にはタタキ針といって、朝早く起きて行くと面白いように取れた.餌は繭のサナギを乾燥して粉にしてまくと、回り中から魚がよってくる.魚は主としてパヤやザッコが多かった.           

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